北軍のミシシッピ川支配はしっかりしたものになり始めた。4月7日、南軍がシャイローから撤退する一方で、北軍のジョン・ポープ少将がボーリガード配下の孤立した部隊をアイランドNo.10の戦いで打ち破り、ミシシッピ川は南のメンフィスまでが確保された。5月18日、アメリカ海軍のデヴィッド・ファラガット提督がアメリカ連合国の最も重要な海港であるニューオーリンズを占領した。北軍のベンジャミン・バトラー少将が強い軍政府で町を支配したために住民の間にはかなりの不満が募った。 ボーリガードはハレック軍の南進に対抗できる程の戦力を集められなかったが、北軍はその状況を活かすことが出来なかった。ハレックはビューエルのオハイオ軍、グラントの西テネシー軍およびポープのミシシッピ軍がピッツバーグ・ランディングで集結するのを待った。ハレック軍は重要な鉄道の接続点であるコリンスに向けて進軍したが、夜には止まって塹壕を掘ったために20マイル (32 km)進むために4週間を要した。この進行の鈍さ故にこの作戦はコリンスの包囲戦という渾名まで貰った。ハレックが漸くその要塞化された町まで到着すると、敵軍のボーリガードは損失が予測される防衛を諦め、5月29日に戦わずして撤退した。 グラントはコリンス方面作戦で直接指揮を執っていなかった。外国為替証拠金取引 はその軍を再編成し、グラントには副指揮官という実権の無い地位を与え、集合させた3軍を混ぜ合わせて3つの「翼」に組み直していた。ハレックがマクレランの後釜で総司令官に就任するために東部へ移動すると、グラントが野戦の指揮官となった。しかし、ハレックは出発する前にボーリガード軍を追跡して打ち破る機会を浪費していた。ハレックはビューエルをチャタヌーガに、シャーマンをメンフィスに、1師団をアーカンソー州に派遣し、ポープにはコリンスの南部を確保するよう命じていた。 ハレックがコリンスの後はほとんど成果が無かった一方で、健康上の理由で退いたボーリガードの後任ブラクストン・ブラッグはコリンスの真南テュペロにテネシー軍56,000名を集めた。しかし、ブラッグはテュペロから直接北に進軍することは実際的でないと判断した。スターリング・プライスとアール・ヴァン・ドーンの2人の少将にグラントの注意を引き付けさせたうえで、35,000名の部隊を鉄道でモービル経由でチャタヌーガに送った。ブラッグは7月21日までテュペロを離れなかったが、ビューエルよりも前にチャタヌーガに到着することができた。ブラッグの全体作戦はエドマンド・カービー・スミス少将の軍と連携してビューエルの通信線を遮断し、ビューエル軍を打ち破ったうえで、グラント軍を倒すために戻るというものだった。 カービー・スミスは8月14日にノックスビルを投資信託 し、カンバーランド峡谷にいた北軍を追い、リッチモンドの戦いで小さな北軍部隊を破った後に、8月30日、ケンタッキー州のレキシントンに到着した。ブラッグはスミスがレキシントンに到着する直前にチャタヌーガから出発した。ビューエルはナッシュビルから北のボウリング・グリーンに向かっていた。しかし、ブラッグは素早く動いて9月14日までにビューエルのルイビルからの補給線に入り込んだ。ブラッグはビューエル軍よりも劣勢だったためにこの機会を生かすことを躊躇した。もしスミス軍と合流できれば勢力的に同等となるはずだったが、スミスの軍は別のことを考えていた。その支援が無くてもブラッグはルイビルを占領できると信じていた。 ビューエルは政府から攻撃的な行動を取るよう圧力が掛かっており、解任される可能性があった(この作戦の開始時点で部下のジョージ・ヘンリー・トーマスが指揮権を譲り受けることに個人的に躊躇っていたことでまだ交替はなかった)。ビューエル軍がペリービルに近付くと、そこにいる南軍の部隊に対峙することに集中させ始めた。ブラッグは、ケンタッキー州の南部側知事がフランクフォートで行う宣誓式に出席することにしており、当初軍隊と共にはいなかった。10月8日、水源の確保をめぐったペリービルの戦いが始まり、戦闘が激しくなると、ブラッグの資産運用 はビューエルのオハイオ軍の1軍団に対する攻撃で戦術的な優位を取った。その夜、ブラッグはビューエルの全軍と向かい合っていることを認識し、ハロッズバーグまでの撤退を命じた。ブラッグ軍は10月10日にスミスの軍と合流した。ブラッグは戦力が上がったにも拘わらず、再度攻勢を取ろうとはしなかった。ビューエルも同じくらい受動的であった。ブラッグはカンバーランド峡谷を撤退し、チャタヌーガを経由してマーフリーズバラまで戻った。 ビューエルはケンタッキー州でブラッグの脅威に直面していたが、ミシシッピ州北部での南軍の作戦は、ビックスバーグ方面作戦の準備を進めているグラント軍がビューエル軍の応援に付くことを阻止しようということだった。ハレックがワシントンD.C.に行ってしまったので、グラントは西テネシー方面軍の指揮官として何の干渉も受けなかった。9月14日、南軍のスターリング・プライス少将がその西部軍をコリンスより東に20マイル (32 km)のイウカに移動させた。プライスはアール・ヴァン・ドーンの西部軍と合流してグラントに対する作戦を実行しようと考えていた。しかし、グラントはウィリアム・ローズクランズとエドワード・オード両少将に軍隊を任せてイウカでプライスとヴァン・ドーンを日経225 させた。ローズクランズは9月19日のイウカの戦いで小さな勝利を挙げたが、二重に包囲しようとしていた自軍の連携がうまくいかず、プライスを捕まえ損なった。 プライスとヴァン・ドーンはコリンスに集まっている北軍を叩き西テネシーあるいは中央テネシーに進もうと決断した。10月3日の第二次コリンスの戦いで、防御を固めた北軍を攻撃したが、大きな損失を受けて撃退された。南軍は北西に撤退し、ローズクランズ軍が疲れていたので追撃を免れたが、その中部テネシーを脅かしブラッグを支援しようという目的は潰えた。 冬季に入ると北軍政府はビューエルをローズクランズにすげ替えた。ローズクランズはナッシュビルで補充と訓練を行い、クリスマス直後にマーフリーズバラのブラッグ軍に対抗するために動いた。12月31日、ストーンズリバーの戦いでブラッグはローズクランズ軍を急襲し北軍をテネシー川に面する小さな陣地まで押し返した。しかし、1863年1月2日、再度ローズクランズ軍を襲う試みは徹底的に反撃され、南東のタラホーマまで撤退した。ストーンズリバーの戦いでの損失は両軍ともに約12,000名で、その勢力に比して大きなものとなり、西部戦線でも最も流血の多いものになった。この作戦の終了とともに、ブラッグ軍のケンタッキー州に対する脅威が無くなり、FX は中央テネシーの支配を実質的に断念した。 エイブラハム・リンカーンは川沿いの要塞都市ビックスバーグが戦争に勝つための鍵を握っていると信じた。ミシシッピ川を完全に支配するためには、ビックスバーグとハドソン港が最後の障害となっていた。ビックスバーグは川が屈曲している所にある高い崖の上にあり、「ミシシッピ川のジブラルタル」と呼ばれ、海軍からの攻撃も難しかった。デイビッド・ファラガット提督が1862年5月に攻撃を試みたが失敗していた。 ビックスバーグ占領のための全体計画は、グラントがメンフィスから南に、ナサニエル・バンクス少将がバトンルージュから北に動くというものだった。バンクス軍の歩みは鈍くポートハドソンで行き詰まり、グラントにはほとんど助けにならなかった。。