仕事で役に立つ株用語集

約定

リーは再度その作戦でグラント軍に大きな損失を与えた。今回は総数18,000名以上となり、そのうち3,000名近くが戦死した。2週間の戦闘でグラント軍は35,000名を失い、さらに20,000名は徴兵期限が切れて故郷に帰った。実際にグラント軍はノースアンナのある時点で有効勢力65,000名を切った。しかし、リー軍もこれらの戦闘で無傷では過ごせなかった。スポットシルバニアでは10,000名ないし13,000名を失い、南軍は他の前線から主力軍の補強のために兵力を引き抜かなければならなかった。事態をさらに悪くしたのは、南軍の古参兵部隊やその最良の士官たちから大きな損失を蒙ったことであった。このことでグラントは、少なくなった軍隊がまずく配置され攻撃されれば脆弱であったはずのノースアンナで大惨事にならずに済んだ。リーは北バージニア軍が攻撃できる状態になかったために攻撃しなかった。実際にリー軍はこの2週間の間に失った主体性を取り戻すことは無かった。南北戦争の西部戦線(せいぶせんせん、英:Western Theater of the American Civil War)は、アメリカ合衆国のミシシッピ川から東、アパラチア山脈から西の地域で北軍と南軍が激突した戦線である。東部戦線とは地理的懸隔もあってやや独立した動きとなっていたが、戦争(1861年-1865年)の後半は東部との連係が重要な課題となった。 西部戦線の戦場は地理的なことと作戦の流れで定義される地域である。当初はミシシッピ川から東、アパラチア山脈から西の地域で表された。メキシコ湾岸や東海岸での作戦は除外されていたが、1864年から1865年にかけて、ウィリアム・シャーマンの指揮する北軍がテネシー州チャタヌーガから南東に動き、ジョージア州や両カロライナ州の領域まで拡がった。この領域よりも南西での作戦については、ミシシッピ川流域戦線で概説する。 西部戦線は南北戦争の戦線の中でもある意味で最も重要なものになった。南軍は限られた資源で広大な地域を防衛することを強いられ、北軍は南部の農業の中心地に直接繋がる川を辿って複数の経路から進入した。ミシシッピ川を支配することは、北軍のウィンフィールド・スコット将軍が提唱するアナコンダ計画の中でも重要な鍵であった。 バージニアの戦線は遙かに栄誉を重んじる戦場である。...しかし、戦争の行方はそこで決まったのではなく、アパラチア山脈からミシシッピ川まで拡がる広大な大地、そしてさらに川の向こうで決まった。西部戦線は真に決定的な戦闘が戦われた。 ?スティーブン・ウッドワース、「ジェファーソン・デイヴィスとその将軍達」[1] 東部戦線は当時もその後の歴史的な整理の段階でも、西部戦線よりかなり多くの注目を集めた。これはその対立する両軍の主要都市が近く東部の大都市に大きな新聞の発行所が集中しており、ロバート・E・リー将軍やストーンウォール・ジャクソン将軍のような東部で名声を博した人物がいたからでもある。このために北軍が西部で南軍を叩き、南部の領土を侵略していったことは、ほとんど気付かれないままであった。 軍事面の歴史家J. F. C.フラーは西部戦線を表現して、車の左の車輪がケンタッキー州に始まり、ミシシッピ川を下り、続いてテネシー州を通って東にジョージア州や両カロライナ州に至る大きな回転運動であるとした。チカマウガの戦いや騎兵あるいはゲリラによる幾つかの大胆な襲撃は例外として、西部戦線での4年間はほとんど南軍が負け続けたことが特徴である。戦術的には引き分けても戦略的には後退であった。この戦線で成功した北軍の将軍達、ユリシーズ・グラント、ジョージ・ヘンリー・トーマス、ウィリアム・シャーマンおよびフィリップ・シェリダンは常に南軍の対抗者を凌ぎ続けた(例外といえば南軍の騎兵指揮官ネイサン・ベッドフォード・フォレストくらいだろう)。 アメリカ合衆国国立公園局(NPS)によって作られた作戦の分類では[2]、本稿で使うものよりも詳細になっている。NPS分類の小さなものは省略するか、大きな作戦の中に組み込んだ。NPS分類にある東部戦線での117の戦闘のうちほんの幾つかを記述することになる。 ベルモント(1861年11月)からシャイロー(1862年4月)まで西部戦線の初期は2つの州、ミズーリ州とケンタッキー州に焦点が置かれた。どちらを失ったとしても北軍にとって重大な足かせになるはずだった。1861年6月にナサニエル・ライアン大尉が資産運用 の戦いで勝利したことが大きく、ミズーリ州は北軍が確保した。ケンタッキー州の場合、南軍寄りの知事と北軍寄りの議会という事情もあり、中立を宣言していた。この中立は、9月3日に南軍のレオニダス・ポーク少将がケンタッキー州コロンバスを占領したことでまず破られた。コロンバスはミシシッピ川下流を抑えるための要衝と考えられた。その2日後に北軍のユリシーズ・グラント准将がその後の軍歴を特徴づけるような個人的独創性を発揮して、パデューカを占領した。この時点からは両軍ともケンタッキー州の中立を尊重しなくなった。この の流れは、ケンタッキー州が公式に南軍に付くことが無かったことと、もし北軍がケンタッキー州内での作戦行動ができなければその後のテネシー州での成功はもっと難しいものになったであろうことを考えれば、北軍の勝利と考えられる。 南軍の側では、アルバート・ジョンストン将軍がアーカンソー州からの全軍を指揮し、カンバーランド地峡に進軍した。ジョンストン軍は数的に劣勢な軍隊で広い前線を守るという難題に直面したが、横の連絡を取り合う優れた仕組みがあったので、その軍隊を必要な所へ素早く動かすことができた。またポークとウィリアム・J・ハーディという二人の有能な部下の将軍がいた。また、ラッセルビル会議で設定された南部の新しい州都ボウリング・グリーンを通じて、ケンタッキー州中部と西部の郡にいる連邦脱退支持者からの政治的な支援もあった。そこの臨時政府は南部政府にも認められ、1861年12月にはアメリカ連合国への加盟を認められた。モービル&オハイオ鉄道という手段を使って、ポークはコロンバスの南軍基地を素早く要塞化し装備を調えた[3]。 西部戦線の北軍は統一された指揮系統が無いために苦しんだ。1861年11月に組織されたものは3つの方面軍に別れていた。デイビッド・ハンター少将のカンザス方面軍、ヘンリー・ハレック少将のミズーリ方面軍およびドン・カルロス・ビューエル准将(ウィリアム・シャーマン准将の後任)のオハイオ方面軍であった。1862年1月まで、西部戦線における戦略的な展開は何一つ合意されず、指揮系統の欠如は明らかであった。ビューエルは東テネシーに侵入し北軍寄りのその地を確保し、緩りとナッシュビルの方向に進んだが、ジョージ・ヘンリー・トーマス准将がミル・スプリングスの戦いで小さな勝利を挙げた他はその目標に対してなんら実質的なことは出来なかった。ミル・スプリングスでの勝利は、南軍の西部防衛線を破壊し、カンバランド峡谷への道が開かれたので戦略的な勝利の意味合いもあるが、それでもビューエルはナッシュビルに近付けなかった。ハレックの方面軍では、グラントがテネシー川を遡ってビューエルの進行から注意を逸らす動きしたが、ビューエルは進まなかった。2月1日、ハレックはテネシー川のヘンリー砦に向けてグラントが進軍することを認めた。 グラントは素早く行動し、2月2日には を使って部隊の移動を始めた。この時の作戦はアメリカ海軍の将官アンドリュー・フットと良く連携がとれていた。ヘンリー砦は氾濫原の上にある粗末な砦であり、砲艦からの攻撃には実質的に耐えられなかった(ヘンリー砦の戦い)。ケンタッキー州が以前中立を宣言していたので、南軍はケンタッキー州内のより戦略的な位置で川に対する防御を施せなかったために、テネシー州内に入って直ぐの所に砦を造っていた。守備隊のロイド・ティルマン准将は2月5日に守備兵のほとんど全員を撤退させ、11マイル (18 km) 東のドネルソン砦に移動させた。ティルマンは捕虜になった。テネシー川はその後北軍が南部に展開するために確保された。 カンバーランド川沿いのドネルソン砦はヘンリー砦よりも防御力が優れており、海軍の攻撃も効果が無かった。グラントの部隊は陸路を進んで南軍を追跡し、砦の背面から直接攻撃を仕掛けようとしたが不成功だった。2月15日、南軍のジョン・フロイド准将の部隊が逃亡を試み、ジョン・マクラナンド准将の指揮する北軍の右翼から急襲をかけて駆逐したが、逃げ出すための穴は明けられなかった。グラントはこの一時的な挫折から直ぐ立ち直り、弱体化した個人向け国債 の右翼に攻勢を掛けた。砦と隣接した町ドーバーにいたサイモン・バックナー准将指揮する南軍は11,5000名の将兵と共に降伏し、グラントが「無条件降伏」を要求したので大砲など軍需物資も渡した(ドネルソン砦の戦い)。ヘンリー砦とドネルソン砦での勝利はこの戦線での北軍にとって最初の大きな勝利となり、2つの大河を手に入れてテネシー州への侵攻の準備ができた。 ジョンストンの防衛前線が敗れた。グラントが予測していたようにコロンバスにいるポークの位置づけは耐え難いものになったので、ドネルソン砦の陥落後一旦軍を引いた。グラントは、南軍が互いに横の連携を取るために使っていたメンフィス&オハイオ鉄道も切り取った。南軍のボーリガード将軍が2月に東部戦線からジョンストンの元に到着し、ミシシッピ川からテネシー川までの全軍を指揮することになった。この南軍は指揮系統をうまく分けたので、ジョンストンはテネシー州マーフリーズバラの小さな部隊を受け持った。ボーリガードはミシシッピ州コリンスの近くで部隊を集結させ攻勢に転じる作戦であった。ジョンストンは3月遅くにボーリガード軍に合流するために部隊を動かした。 北軍の作戦準備ははかばかしくは進まなかった。ハレックは南軍が分割されて個別に粉砕できるということを理解するよりも、北軍総司令官ジョージ・マクレランとの関係で自分の立場の方により関心があるように見えた。さらに同輩でありナッシュビルにいるビューエルが協働行動を取ることに同意できなかった。ハレックはグラントをテネシー川に送り、ビューエルはナッシュビルに留まっていた。3月11日、リンカーン大統領は、ハレックをミズーリ川からノックスビルまでのipo 指揮官に指名し、指揮系統を統一させたので、ハレックはビューエルにテネシー川のピッツバーグ・ランディングでグラントの部隊に合流するよう命令を出した。 4月6日、ボーリガードとジョンストンの下に集結した南軍はグラントの準備ができていない西テネシー軍に対しピッツバーグ・ランディングで明け方の総攻撃で急襲した(シャイローの戦い)。この戦闘の初日、南軍の猛攻でグラント軍を後退させたが、打ち破ることはできなかった。ジョンストンがこの日に戦死した。アメリカ連合国の大統領ジェファーソン・デイヴィスは当時、ジョンストンのことを南軍で最も有能な将軍と考えていた。2日目の4月7日、グラントはビューエルの応援を得て反撃し南軍を後退させた。この時、グラントは撤退する敵軍の追撃に失敗したために大きな非難を受けることになった。しかもこれまでの全戦闘を合わせたよりも大きな両軍併せて約24,000名という損失を出していた。