北軍が最初の攻撃で崩壊しない限り、戦闘が続けばより堅固で強固な防衛陣地に押し込んでしまうことになり、一方南軍は次第に気運を失って、バラバラになり弱くなっていった。北軍はうまく退くことができれば戦闘の残骸から雪玉のようにその力を固めることができた。しかし南軍は前進するにつれて、糸玉のように解けていくことが避けられなかった。 その夜、ローズクランズは何をすべきかを決めるために作戦会議を開いた。将軍達の何人かは北軍が負けたと感じ、全軍が逃げ場を無くす前に撤退することを奨めた。ローズクランズはこの考えに反対し、これをクリッテンデンとトーマスが強く支持した。幾つかの史料に拠れば、トーマスはこの作戦会議で「この軍隊は撤退しない」あるいは「ここより良い死に場所は無い」と言ったとされている。結論はそこに留まって戦うことになり、北軍の前線は補強され、兵士の士気は上がった。ローズクランズは戦闘の後で「ブラッグは良い犬だが、しがみつくのも悪くない」と言ったとされている。 南軍側では、ブラッグが勝利を得たと確信していた。その日の損失は9,000名だったが、北軍の兵士を多く捕獲したことで、北軍はもっと多く失っていると信じた。南軍兵は北軍前線に面して塹壕を掘り始めた。ブラッグは寝る前にリッチモンドに宛てて電報を打った。曰く「敵はその強固な陣地を放棄して後退している。我が軍は全戦場を占領し敵を追跡する。...神は我々に幸福な新年を授け賜う。」 1月2日午後4時 1月2日午後4時45分1863年1月1日午前3時、ローズクランズは当初の作戦を復活させ、ヴァン・クリーブ師団(前日ヴァン・クリーブが負傷し、サミュエル・ビーティ大佐が指揮していた)に川を渉り、渡河地点2箇所を保護し良好な砲台となるそこの高台を占領するよう命じた。しかし、この日は両軍共に新年の祝日を守り疲れを癒し傷を治療することで比較的静穏だった。ポークは北軍前線の2箇所、トーマスとシェリダンの部隊に対して探りを入れさせたが、ほとんど効果は無かった。 北軍の後方ではウィーラーの騎兵隊がナッシュビルに向かうターンパイク上の通信線に嫌がらせを続けた。騎兵隊の攻撃から負傷兵を後送する部隊を守るために大層な護衛が付き、ウィーラーはこの動きを撤退の準備と解釈しブラッグにも報告した。ブラッグは戦いに勝ったという感覚に元気づけられ、ローズクランズが撤退するのを待つことで満足していた。 1月2日に午後4時、ブラッグはブレッキンリッジの部隊に川の東岸の丘を占領しているビーティの師団を攻撃するよう命じた。ブレッキンリッジは当初その攻撃が自殺行為だと抗議したが、最終的には同意して決死の覚悟で攻撃した。北軍はマックファデン浅瀬の向こうに押し出されたが、南軍の攻撃は川向こうからクリッテンデンの砲兵隊長ジョン・メンデンホール大尉の指揮する砲兵隊の集中砲火を浴びることになった。メンデンホールはその大砲45門を車軸から車軸に並べて完璧に配置し、対岸とその向こうの高台の敵を完全に支配し、この日のローズクランズ軍を救った。南軍の攻撃は立ち往生し、1時間足らずの間に1,800名以上の損失を出した。午後4時45分にジェイムズ・S・ネグリーの師団(トーマスの翼)が反撃を開始し、南軍は撤退した。ブレッキンリッジはこの商品先物取引 で大きく落胆した。そのケンタッキー部隊(ロジャー・W・ハンソンの旅団、北軍が占領したケンタッキー州に戻れないので孤児旅団とも呼ばれた)の3分の1近くを失った。ブレッキンリッジは生き残った兵士達の中に馬で乗り入れ、「かわいそうな孤児よ!かわいそうな孤児よ!」と繰り返し叫んだ。 1月3日の朝、ローズクランズの元に大きな輜重隊と援軍の歩兵旅団が到着した。ウィーラーの騎兵隊がその後に付いて弾薬の荷車を奪おうとしたが撃退された。トーマスはその翼のラベル・H・ルソー師団に対して常時狙撃兵に狙われていたことに反応して2個連隊で南軍前線の中央を襲わせた。トーマスは南軍をその塹壕から引き出し、70ないし80名を捕虜にした(この行動にも拘わらず、主要な戦闘は一般に1月2日に終わったと認められている)。 ブラッグは、ローズクランズ軍がCFD を受け続けるものと確信し、凍えるような雨というひどい天候で河面を上昇させその軍隊が2つに分けられてしまう可能性を認識した。1月3日の午後10時から、ブラッグはマーフリーズバラを抜け、南に36マイル (58 km)離れたタラホーマまでの撤退を開始した。ローズクランズはマーフリーズバラを占領したが、ブラッグ軍を追撃しようとはしなかった。 両軍併せての損失は23,515名だった。北軍は13,249名、南軍は10,266名だった。これは南北戦争の主要な戦いの中でも損失率で最大であり、この年のそれ以前にあった有名な流血戦シャイローの戦いやアンティータムの戦いよりも絶対数で大きかった。この戦闘は戦術的に引き分けたが、ブラッグ軍が最初に戦場から撤退したために伝統的に敗北と考えられている。ブラッグは南軍の軍人仲間から均しく侮蔑を受けた。唯一ジョセフ・ジョンストンが支持したことと、ジェファーソン・デイヴィス大統領が適当な代案を見付けられなかったことで、指揮官解任は免れた。しかし、結果を見れば少なくとも北軍の戦略的勝利だったと言うことができる。この戦闘は北軍の士気高揚に大変重要であり、エイブラハム・リンカーンのローズクランズ将軍に宛てた手紙でも「貴方は我々に得難い勝利をもたらした。それが敗北であれば、この国は生存し続けられなかったであろう。」と言ったのが証拠になる。中部テネシー州における南軍の脅威は無くなった。 ローズクランズは不動産投資 を使ってマーフリーズバラを補強した。膨大な土木工事による「ローズクランズ砦」が建設され南北戦争の残り期間は補給基地として機能した。次の大きな衝突はタラホーマ方面作戦として知られるフーバーズギャップの戦いであり、1863年6月にローズクランズがブラッグ軍に対して遂にその軍隊を動かした。 ストーンズリバーの戦いの戦場跡一部とローズクランズ砦は現在、ストーンズリバー国定戦場跡となっている。「地獄の地獄の半エーカー」で有名となったウィリアム・ヘイズン旅団によって建てられた、合衆国最古で原型を保っている南北戦争記念碑がある。600エーカー (2.4 km2)の国定戦場跡には1865年に設立されたストーンズリバー国立墓地があり6,000名以上の北軍兵の墓がある。 スポットシルバニア・コートハウスの戦い(スポットシルバニア・コートハウスのたたかい、英:Battle of Spotsylvania Court House、または単にスポットシルバニアの戦い、英:Battle of Spotsylvania)は、南北戦争の中盤1864年5月8日から21日に、北軍ユリシーズ・グラント中将が、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍に対して起ち上げたオーバーランド方面作戦の2番目の戦いである。戦場はバージニア州中部のラピダン川とラッパハノック川の地域であり、1862年から1864年の間に両軍共に10万名以上が倒れた場所でもあった。 この戦闘は全長がおよそ4マイル (6 km)の塹壕線に沿って行われ、リーの北バージニア軍が、グラントとジョージ・ミード少将のポトマック軍の春の攻勢を止めようという2回目の試みだった。流血が多く引き分けに終わった荒野の戦いから1週間も経たないうちに起こっており、南軍は52,000名、対する北軍は100,000名が参加した。 リーが「荒野」で一旦北軍の前進を止めた後で、グラントはその時の陣地の特長を生かし、リー軍の右手に回り込むことで南への移動を続け、アメリカ連合国の首都リッチモンドに近付いていくことにした。荒野の戦いが終わった1日後の5月7日の夜には既に軍隊の移動を始めさせ、5月8日に、ガバヌーア・K・ウォーレン少将の指揮する第5軍団を10マイル (16 km)南東のスポットシルバニア占領に派遣した。リーはグラント軍の動きを予測しその妨害のために軍隊を送った。J・E・B・スチュアート少将の騎兵隊とリチャード・H・アンダーソン少将の指揮する第1軍団(通常はジェイムズ・ロングストリート中将の指揮、荒野の戦いで負傷していた)がその任に当たった。 南軍がスポットシルバニアに向けた競争に勝ち、5月9日、両軍はそれぞれこの小さな町の北に新しい外貨預金 を取った。投資信託 の配置を見定めようとこの日に南軍の散兵線に探りを入れているときに、第6軍団指揮官ジョン・セジウィック少将が狙撃手の弾に当たって戦死した。指揮官はホレイショ・G・ライト少将が継いだ。リーは4マイル (6 km)以上の塹壕線に沿って部隊を配置し、攻撃してくる部隊を縦射できる位置に大砲を据えた。リーの前線には一つだけ大きな弱点があった。「ミュールシュー」と呼ばれる突出部が主塹壕線の前面から (1.6 km)1マイル以上も飛び出していることだった。リーは5月10日の戦闘中にこの弱点を認識した。このとき、北軍エモリー・アプトン大佐が指揮する12個連隊が集中し激しい砲火の支援を受けて、前面が狭くなっているミュールシューの先端部に強襲を掛けた。実際に南軍の前線を破り、南軍の第2軍団はこれを排除するために大変難渋した。アプトンの攻撃は後に准将に昇進する要因となり、敵の塹壕線を破る方法として軍事教科書にも載った。同じような戦術は第一次世界大戦の1918年3月、ドイツ軍の成功したマイケル作戦で使われた。北軍による5月10日の他の攻撃はあまり成功せず、その日は全体的にグラントが衝動的に命じた協調性の無い正面攻撃が特徴だった。繰り返された攻撃は特に南軍の左翼で無効であり、ウォーレン将軍がローレルヒルと呼ばれる陣地に何度も攻撃して失敗した。